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STORY #1創業57年になる木工所から
”建築屋”さんという仕事をなぜ選んだのか?

「ふくもくの家」の福井です。1967年生まれの羊年です。
私の会社は創業57年になる(株)フクモクと申します。 今はカタカナの名前ですが、以前は福井木工所と名乗っていました。
私が生まれた昭和42年のときにはすでに木工所(建具屋さん)をはじめて おりました。ヒノキやヒバといった建具に使われる材料が工場内にはたくさん ほしてあって、木材の良い香りがする家で育ちました。
父、母と二人が創業し、場所はこの町の学校の前に家を建て、家の裏に 工場がありました。
高度成長期とはいうものの、景気はまだまだで、田舎町でゼロからのスタート、身内・ご近所の方に大変お世話になり建具の仕事をいただいていたと、よく父が話してくれました。
余裕のある融資が受けられる時代でもなく、爪に火を点す生活をし、必死に働いてきた昭和の時代。
父は高度成長期の波にあわせ、自分の修行時代の技術を生かし、建具、家具の制作をしていました。
その時代、時代に合わせた経営をしてきたと思っています。
STORY #2私の原点

そんな苦労も感じることなく、私は大変恵まれた環境で育ってきました。 学校が目の前ですからね。歩いて1分です。(笑)
私は母に似たのでしょう。おとなしい性格で、人前にでると真っ赤になり 恥ずかしい思いでつい下を向いてしまうような子でした。
3人男兄弟の長男ですが、弟たちの面倒をよくみる良い兄貴というよりは、 昔でいうガキ大将の後ろにいわれるままついて遊んでいたことを覚えています。 でも、そのガキ大将とは今でも親友で、今でいういじめのようなことはありませんでした。
おとなしいわりに好奇心が旺盛で、いやなことを感じない鈍感なところがあったからもしれません。
勉強よりも体を動かすことが大好きで、今のように当たり前にゲーム遊具がないときだったので、 ゴムのボールで仲間を集め、小さい頃は三角ベース、小学校低学年の頃はあちらこちらの広場でよく野球をしたものです。
町の90%は山に囲まれています。
山の谷に集落がある小さな町なので、友達の何人かは、今のようにバスで学校に送ってもらう習慣はありませんでした。
山を歩いて超えて3km、4km通う友達について友達の家によく遊びにいったりもしました。
ときには、数人のグループで自転車に乗って、週末は往復20km以上をサイクリングしたりしました。
後はひたすら外では野球をしたりするのが、私たちの世代の田舎の子はみんなそうではなかったでしょうか。
小学校の5年の頃でした。
店舗を大きくし、工場を大きくし、大手ハウスメーカーさんの住宅建材を製造させていただく製造業に会社を切り替えでいきました。(パナホームさん、積水ハウスさん、住友林業さんetc・・・)まさに、第三次産業の時代でした。
STORY #3多感な高校・大学時代


その後地元(目の前の小学校、中学校)を卒業し、高校からはなんとか入れた ところに行きましたので、親や先生の進められるまま、地元を離れ、岐阜市の 学校に通うことになりました。
というよりは、通うことができる距離ではないので、12年間地元の保育園、学校に通っていた少年が、いきなり借家を借りての一人暮らしが始まったわけですから、私には大きなカルチャーショックでした。
便利で商業施設が全くない町から、県内で一番大きな町での生活ですから、自分にとっては衝撃的だったのをはっきりと覚えてます。 もう一つは、食べること、掃除、洗濯など、親の有難みをすこしは感じた時です。
ときには、この歳の子が、スーパーで買い物していたりしている姿を見て、ご近所の方に声をかけていただいたり、知らない土地で生活した経験により、 人の気持ち、親の気持ちを少しは考えるようになりました。
生活も少しづつ慣れてくると、この頃も好奇心だけは旺盛な私でしたので、親元を離れ、寂しい思いも当然ありましたが、自分で楽しいこと、ワクワクすることに興味をもち、 唯一ある交通手段(自転車〉で岐阜市の中心部で友達と映画をみたり、友達の家に遊びにいったりと親の苦労も知らず遊びほうけていました。(親のこころ子知らずですね。)
当然ながら、学年の成績はいつも後ろから1、2位を争そっていました。
私たちの親は学歴がある方は珍しく、私の父も学歴より働かなくてはいけない時代の人でしたので、 私たちにはとにかく行けるならなんとか大学にいってほしいと思っていました。
この頃、多くの人が大学をめざし、大学さえでればそこそこの大手の会社に就職ができる時代でした。バブル真只中の高校時代。
そんな時代ですから、出来の悪い自分でも行ける学校があるにも関わらず、また、好奇心があるというか、ただの思い付きなのか、わがままを行って一浪をし、関東の大学に行くことにしました。
やりたいことというよりは、行きたいところで学校を選んでいますから、大学でも、そこそこ学校は行って、あとは毎日バイトに明け暮れておりました。当時の大学はレジャーランドといわれておりました。
そんな私も、とうとう就職をしなくてはいけない時期になりました。
1990年です。数年後振り返るとバブルが崩壊した時ですね。
当時はそんなことは誰も知りません。
少なくとも当時の学生達はまだまだ就職は企業から引っ張りだこでしたから、学生時代の友達もみんな実力以上に良いところに就職したと思います。
そんな自分でも、今までいろいろと苦労をかけてきた親に、これからは少しづつ恩返しをしなくては、家の商売もバブルとともに好調で忙しくさせていただいたこともあって、助けてあげることができたらと思いました。
ただ、遊びほうけてきた自分がいきなり社会にでて、しかも親の事業を手伝うということが自分ではなぜか納得できず、また、思い付きなのか、修行をして少しは社会人として役に立つ人になって、親の商売を手伝おうと思いました。
創業者である父のゼロからのスタートは、自分が想像できるようなものではないでしょうが、その創業の精神を何かの形で体験したかったからです。
バブル世代ですから、そうは思ってもどうしたらそうした経験ができるのか考えた結果、その想いをある方に相談し、手紙にしました。
木材の仕入れ先に研修生という形で、面倒をみてもらえる会社に勤めることができました。場所はアメリカ、オレゴン州 。
一人には慣れていたものの、正直迷いました。飛行機にも乗ったことがありません。
一人で知らないところに行く、そこに馴染んで生活することが、なぜが自分には寂しい気持ちもありながら自信を成長させてくれる体験だと思い、お世話になることに決めました。
STORY #4新米時代、様々なを経験しました


ここでも衝撃的な経験をたくさんさせていただきました。まずは言葉と習慣の壁です。
いくら勉強をあまりしてこなかったとはいえ、中学から思えば約10年は英語を学んだのが、全くわからない。流石に落ち込みました。
木材を扱う工場に勤めていましたから、木を扱う会社なので、当然田舎町です。日本人はそこにはいません。 英語も話せないので事務所でやれることもありません。まずは、工場内の清掃からはじめました。
背丈はそんなに変わらないのですが、みんな自分の2倍もあるよう体つき、腕の太さでした。
とにかく慣れるしかありません。
仕事場では真似るしかありませんでした。
仕事が終われば、今日の仕事で出てきた英語の復習と、体力の差をジムに通うことで鍛えました。
居候先の家族は(今でいうホームステイ)自分の家族同様に迎えていただいたし、働いていた工場でも、少しづつでしたが、毎日勤める自分にみんなが声をかけてくれるようになりました。
ここでは、人に対する本当の優しさを教えていただいたと思っています。
手を差し伸べるのも優しさですが、厳しさの中に本当の優しさがあるとこの時知りました。
僅か1年でしたが、その経験は4年以上時間の経過を感じました。自分の中ではそう体感しています。
まだまだ、いろいろと経験を積みたかったのですが、親の後を継ぐということだけは、決めていましたので、一から現場で製造のことを学びました。
1991年のことです。 バブルがはじけたとはいえ当時は急激に景気が悪くなったわけではありません。まだまだ忙しく、仕事は継続的に続いていくと思っていた経営者は多かったのではないでしょうか。
じわりじわりと景気が後退していくとともに、当社も業績が思いわしくなくなってきました。「仕事はあるのに・・・・?」
試行錯誤の日々が続きました。
STORY #5試行錯誤の先に見えたもの

トヨタ生産方式を取り入れたりして、工程の改善にも取り組みながら、毎年毎年お願いされる5%~10%コストダウンの中、社員と会社を守るため、みんなで知恵を出し合い、仕事の確保の為なんとかその要求に応えてきました。
その後結婚し、私が35歳の時でした。
「来期からお前が社長をやりなさい。」
いつも唐突な父の言葉に戸惑いながら、
いつか自分が会社を守っていかなくてはいけない時がくると決心しました。
しかし、仕事はあるものの思うような業績があがらない現状は変わらず何が足らないのかよくわかりませんでした。
ある方との出会いからやみくもにがんばるだけでは業績は良くならないことと、経営者は数字に強くなければ会社はよくならないことを学びました。
分析するにしたがい、同じことをつづけていてはいつか会社はなくなることに気づき、ある時、今まではいかにコストを下げて物をつくることに撤することが我々の使命だと思ってやってきたのですが、いくら大手ハウスメーカーさんの要求に応えて、住宅部材を製造したとしても、我々には実際に家を建てられておられるお客様の喜ばれる顔が見えないことにも気づきました。
さらに、大手さんの坪単価を聞き、昔からかわらない、むしろ高くなっているのに対し、我々が必死になってお応えさせて頂いたコストダウンはいったいだれのためのものだったのだろうと、疑問に思うようになりなりました。
そんな時、ある公共工事の受注をいただくために、取得することができました。

「建設許可があるならうちの離れを建ててくれないか。」
そのひとことが工務店へのスタートでした。
ある時、私が現場監督をさせて頂いたお客さまから、完成まじかで思いもよらないことを言われました。
「大工さんはいい人だけど、あなたはお客さんお気持ちが全然わかっていない。昔から家は3回建てないと本当の自分の満足する家は建てられないという意味がよくわかったわ!!」
引き渡しの時に言われた言葉です。
手落ちがないように、四六時中現場に張り付いて、
お客様の言われるとうりの家を造らせていただいているつもりでした。
設計士さんからは
「良くここまでできたね。イメージどうりの家ができましたね。」
とお褒めの言葉をいただいても、お客さまから「ありがとう」のお言葉はいただけませんでした。
「私は何のために一生懸命やったのか?」
「どうしたらお客さまに喜んでいただける家づくりができるのか?」
そして、
「もう二度とお客様にこんな思いはさせてはいけない。
お客様にこんな思いをさせるくらいなら建築なんて・・・」
どれだけやめようと思ったかしれません。
高校から親もとを離れ、いろいろな方に助けていただき、
少しは人の気持ち、優しさをわかっているつもりでしたが、そのお気持ちを知ることができていなかったと思っています。
時間の経過とともに、一生に一度の住まいづくりをされるお客さまにとってその気持ちを少しもわからず、
「腕のいい大工さんと耐震にすぐれ、見た目もかっこいい家を建てさえすれば、
お客様は喜んでいただけるはずだ。」と勝手に思い込んでいた自分。
お客様の気持ちを大切にした住まいづくり、工務店の仕事は“家”という箱を作る仕事ではないということにこの失敗を通じて改めて気づかせて頂きました。
だれより、つらい思いをされているのは自分以上にお客様ですから。
その後、2件目、3件目とご注文いただけるようになった事のことです。
その後は「あなたにお願いして良かった。ありがとう。」と言っていただく度に少しは責任をはたせた事が、自分のプロとしての誇りと喜びになります。
そして、次回もこの言葉をいただくためにどうすればそう言っていただけるのか、いまも日々勉強しています。
今はお客様の住まいづくりに対する想いや、不安をしっかりお聞かせいただくことが本当に大切なことと心に刻み、取り組んでいます。
その中でも家づくりの仕事をしていくうえでこれだけはこだわっていることとして、
「住まいづくりの資金計画にとことんこだわり、絶対に無理のない借入金額返済計画の中でご提案する!」と決めています。
何故かと申しますと、それは・・・
私は日々住宅のこと、この業界のことをもっともっと知るために、全国の工務店社長にお会いし、いろいろなお話をする機会をいただいております。
知れば知るほどこの業界は、ご経験豊富な何十年とこの業界にいるプロたちがどこに重きをおいて仕事をしているのか疑問に思う出来事が現実にあることを知りました。
例えば築3~5年の家が中古住宅としてまだ新しい家が広告チラシに載っていること。
「なぜ?」このご家族はどうしてしまったのだろう。
こんなにも物質的に発展をとげ、いろいろな技術が発達していて、見た目は立派な家なのに夏暑くて冬寒い家など。
「壁の中はどうなっているのだろう?」
「本当にお客様にとって必要なことは何なのか?」
「私が今後この業界で少しでもお役に立てることは何か?」
と考えたときにひとつの答えを見つけました。
改めて感じたことは、どんな立派な家を建てたとしても、
その中で生活するご家族が幸せでなければ、家はただの箱にすぎません。
だから私は資金計画(ファイナンシャル)を第一に考えてほしいのです。
STORY #6資金計画の大切さ


最近そのことが多少理解されてきたのか、いろいろなところで資金計画は当たり前になってまいりました。
しかし、その内容を聞いてみると、ほとんどのところがプラン見積りをしてからの資金の概算計画でしかないようです。
建物○○円―自己資金○○円=だから○○円借入をする。
が資金計画であるというところもあれば、
まずは資金の計画をするためにプラン見積りをしてから資金計画をしたりするケースが多いようです。
私のお勧めする資金計画はご家庭ご家庭に合わせた資金計画をし、 そのお客さまにとって本当に安心な資金計画をお伝えしています。
時には、「今は建てないほうがいいかもしれません。」とお伝えしなくてはいけないケースもあります。
素敵な家を持つことは素晴らしいことですが、それは決して人生のすべてではありません。
例えハウスメーカーさんが、他の工務店さんがプランや間取りの話から始めたとして、もう既にプラン見積りが終わって相談に来られた場合、それをもとに資金のお話をさせていただきます。
なぜなら
「家を建てる順番を間違えてほしくないのです。」
家には他の買い物にない様々な特典もありますが、その反対に他の買い物にはない費用もかなりかかってきます。
また、家族構成はもちろんですが、ご主人、ご家族の年齢とともに、建てられるタイミングもそれぞれに違います。
どこで建てられるにしてもこのことだけは知っていただきたくために、我社で資金計画をして建てて頂いたお客様の家をお借りして、見学会や、家づくり勉強会を開催しております。
「まずは、一緒にファイナンシャルからはじめましょう。」
この仕事を通じて、そんな私も家族の家を持ちたいと思っています。
STORY #7最後に私の事を少し…


私の家族は7人家族です。
父(74歳)母(72歳)私(48歳)妻(○○歳)(今度直接聞いてください。)
そして、大学1年生の娘(18歳)高校1年生の長男(15歳)中学2年生の次男(13歳)の一姫二太郎です。
私の使命は
「自分に関わる全ての人を幸せにする。」です。
「子供を3人授かっても住める家づくりを実現してほしい。」
と思っています。
そして、ふくもくの家とは、
四葉のクローバー「誠実、希望、愛、幸運」の4枚そろってはじめて「真実、本物」の力となるとの意味があるように我々とかかわった方がそうなってほしいと願っております。
そのために、皆様が安心して住まいづくりの事を相談できる知識と経験を持ち、 そして家を建てる施主の気持ちがわかるアドバイザーでなければいけないと思い、一生懸命勉強しています。
自分に足らないところは、同じ志をもった全国の仲間が全力でサポートできるよう、切磋琢磨しています。
長々と申し訳ありませんが、私はこのような人間です。
ご縁あれば、見学会などでお会いできる機会を心より楽しみにしています。
取り急ぎご挨拶までですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
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